【20代男性】酔って転んだときにぶつけて歯が折れた。
神経を残して欲しい。
メタルフリー希望。
はじめに:突然の外傷。
本人も気づいていなかった、
本当の問題
早朝、まだ開院前の時間でした。20代の男性が、前歯を大きく欠いた状態で当院に駆け込んできました。
前の晩に転倒してぶつけたとのこと。おそらく、その時間に開いている歯科医院が、近くにここしかなかったのだと思います。
ご本人は「欠けたところを直してほしい」という認識で、痛みもほとんど感じていない様子でした。
しかしこの時、私が見ていたのは、欠けた歯の形そのものではありませんでした。
露髄 ── 本人が気付いていない、本当の緊急事態
歯の中をのぞいて、私はすぐに気づきました。露髄しています。
折れた断面から、歯の神経(歯髄)がむき出しになっていたのです。
これは、本人が思っている「欠けた」という話とは、まったく次元の違う緊急事態でした。むき出しの神経は、放っておけば細菌に侵され、遠からず死んでいきます。
そうなれば神経を抜くしかない。
一般的には、ここで抜髄(神経を抜くこと)が、最も確実で手早い選択です。
20代の若者で、酔っていて、判断も曖昧。「抜いておきましょう」と言えば、おそらく彼は「はい」と答えたでしょう。
でも、私はそうしたくなかった。
神経は、二度と戻らない
歯の神経は、ただ痛みを感じるだけの組織ではありません。歯に栄養と水分を送り、内側から潤いと弾力を保ち、細菌の侵入をいち早く察知する ── 歯の中に通った一本の「生命線」です。
これを抜いた歯は、枯れた木の枝に似ています。見た目はしばらく変わらなくても、内側から脆くなり、ある日突然、根元から折れる。
そして一度抜いた神経は、二度と戻りません。今の医学をもってしても、失われた歯髄を蘇らせることはできません。
「いつでも抜ける」けれど「二度と戻せない」。
ましてや彼はまだ20代。この先、何十年とこの歯を使っていく人です。
彼自身は、その重大さに気づいていません。だからこそ私は伝えました。
「神経がむき出しになっている。抜くのは簡単だけれど、私は残したい。一度、挑戦させてほしい」と。
本人は、酔いの中で「え」という顔をしていたかもしれません。どちらでもいい、くらいの反応だったと思います。それでいい。
本人がまだ価値をわかっていないものを、その時点で守るのが、専門家の仕事だと私は考えています。
その朝、行ったこと ──
一度きりの「初期消火」
事態をさらに難しくしていたのが、彼が当時、舌側矯正(歯の裏側に装置をつける矯正)の最中だったことです。
折れた歯の裏には、矯正装置(ブラケット)が残ったまま。この限られた条件の中で、その日のうちに神経を救う処置を完遂しなければなりませんでした。
1. 洗浄・消毒
露出した神経の周囲を、薬剤で念入りに洗浄・消毒しました。
2. MTAセメントによる封鎖
むき出しになった神経をMTAという材料で封じました。MTAは、神経を保護し、その下に新しい硬い組織(象牙質の橋)を作らせる力を持つ、歯髄保存のための切り札です。
当時はまだ白いMTAもなく、グレーのスタンダードな製品を用いました。
3. 形態の復元(ダイレクトボンディング)
MTAの表面を保護した上に、歯科用の接着材とレジンを重ね、欠けた天然歯の形を一から再現しました。
4. 矯正装置の再装着
残っていたブラケットも、再び正しく装着し直しました。
折れた歯の修復・神経の保存・矯正の継続を、その一朝のうちにすべて成立させた ──
これが、この症例の「第一章」です。
治療前

治療後

治療前

治療後

治療前

治療後

治療前

治療後

治療前

治療後

術後1週間経口腔内写真

処置から7日後。再建した前歯の形は周囲になじみ、懸念された歯髄(神経)も生きたまま保たれています。
術後1週間経過・レントゲン

同時期のレントゲン。露髄部をMTAで封じ、神経を残したまま形を回復させた処置の状態を確認できます。
数年後、彼は戻ってきた
処置のあと、彼の足は当院から遠のきました。多忙な仕事を持つ人で、治療は中断したままになりました。ところが数年後、彼は再び当院の扉を開けました。他院で続けていた矯正治療を終え、今度は腰を据えて口の中全体を治したい、と。
一度きりの救急処置が、ここから「生涯のおつきあい」へと姿を変えていきます。戻ってきた口の中を診ると、課題がはっきり見えました。
あの朝に修復した前歯は、神経こそ無事に生きていましたが、境界面がうっすら黒く見えるようになっていました。これは、土台のMTAのグレーと、上に重ねた透明なレジンが光を透かして起こるもので、応急処置として最善を尽くした材料の、いわば“時間が経って表に出た性質”です。
そして口全体には、別の問題が進んでいました。むし歯になりやすい体質(カリエスリスクが高い)で、歯周病(ペリオ)も始まりかけていた。過去に詰められた金属のインレーや古い修復物が、あちこちに残っていました。
「応急処置」から「生涯もつ口」へ ── 包括治療
ここから先は、もう“折れた前歯一本”の話ではありません。お口全体を診る包括治療へと切り替えました。
まず歯周基本治療で、すべての治療の土台となる歯ぐきと骨の環境を整える。その上で、古い金属修復をすべてやり直し、むし歯を一つずつ片づけていく。たびたび中断を挟みながらも、長い時間をかけて、口の中を作り直していきました。
そして最終的に、すべての修復をメタルフリー(金属を使わない材料)で仕上げました。あの朝に応急処置で再現した前歯も、最終的にはセラミックのクラウンへと置き換えています。応急処置のレジンに見えていた黒い境界は、これで完全に解消されました。
前歯の仕上げにおける
「設計の工夫」
ここで、前歯の仕上げに一つの工夫があります。破折していた中切歯を、反対側の健全な中切歯に調和するよう作り直しました。といっても、ただ左右をそっくり同じ形にコピーしたわけではありません。実際の歯は、左右でわずかに傾きや幅が違います。
その違いを計算に入れたうえで、見る人の目には自然に左右が釣り合って見えるよう、形を緻密に整えています。歯の修復は、その歯だけを見て決めるものではありません。笑ったときに歯がどう見えるか、お顔立ちの中でどう収まるか ── その全体像から逆算して、一本の形を決めていく。ここに、ただ欠けを埋めるのとは違う、設計の手間をかけています。
セラミック修復と神経の保存効果
金属には、歯ぐきの変色や、わずかな段差から細菌がたまるという弱点があります。セラミックは、天然歯に近い色と、細菌がつきにくい滑らかさを両立できる。あの朝に救った神経の上に、今度は何十年と使える精密な歯が載りました。
外傷で折れた、たった一本の前歯。その神経をあの朝に残せたからこそ、彼は今も自分の天然の神経を持ったまま、その歯を使い続けています。
神経を残す、ということ
あの朝から、もう10年以上が経ちました。彼の前歯の神経は、今も生きています。
もしあの時、私が「抜いておきましょう」と言っていたら。
酔って判断も曖昧な彼は、それを疑問にも思わず受け入れたでしょう。手早く、確実で、誰も困らない。けれど彼は20代にして自分の神経を一本失い、その歯は枯れ木に向かって、静かに歩み始めていたはずです。
神経を抜くか残すかは、その歯の寿命を10年、20年単位で左右します。だから私は、残せるものは残す。露髄していても、条件が厳しくても、残せる可能性が少しでもあるなら、私はそこで残す側に立ちます。
「いつでも抜ける」けれど「二度と戻せない」ものを、本人がまだその価値に気づいていない時点で守り抜くこと。それを、私は専門家の責任だと考えています。
抜くのは、いつでもできます。だからこそ、抜く前に一度、立ち止まってほしいのです。
初診口腔内5枚法(総評)

初診時の口腔内。前歯の破折が目を引きますが、私たちは折れた歯だけでなく、口全体の状態を一枚ずつ記録するところから始めます。この時点で、むし歯のなりやすさや歯ぐきの状態にも、すでにいくつかの課題が見て取れました。
パノラマ

初診時のパノラマレントゲン。まず全体像を一枚で把握します。
破折した前歯の状態に加え、顎全体の骨や他の歯の状況をこの段階で確認しています。
破折した前歯の状態に加え、顎全体の骨や他の歯の状況をこの段階で確認しています。
ポケットチャート

初診時の歯周ポケット検査(EPP)の記録。当院では、たとえ外傷での救急来院であっても、初診時に必ず全顎の歯周検査を行います。折れた歯を診ると同時に、歯ぐきと骨の状態を数値で記録しておくことが、その後の口全体の管理の出発点になるからです。
口腔内5枚法(総評)

約4年ぶりの来院。矯正は終わっていましたが、保定が途切れていたため、まず矯正医への受診を案内しました。あの朝に救った前歯の神経は、変わらず生きています。一方で口全体を見直すと、応急処置のままだった前歯や古い金属の修復物、そして歯ぐきにも、腰を据えて整えるべき課題が見えてきました。
ポケットチャート

再来院時の歯周ポケット検査の記録。20代の頃には見られなかった歯ぐきの炎症のサインが、いくつかの部位に現れ始めていました。包括治療では、こうした土台の状態を整えることから着手します。
デンタル14枚法

歯を1本ずつ精密に撮影し、口全体を細かく評価します。救急時のパノラマでは見きれなかった一本一本の状態を、ここで初めてくまなく確認しました。
口腔内5枚法(総評)

一連の治療を終えた、最終評価時の口腔内。すべての修復をメタルフリーで仕上げました。破折していた中切歯は、反対側の健全な歯と調和するよう、形や傾きを緻密に整えて作り直しています。
単純な左右対称ではなく、お顔立ちの中で自然に見えるよう仕上げているのが、この一本の見どころです。
そして ── あの朝に救った前歯の神経は、今も変わらず生きています。
ここから先は、この状態を保つメインテナンスへと移っていきます。
単純な左右対称ではなく、お顔立ちの中で自然に見えるよう仕上げているのが、この一本の見どころです。
そして ── あの朝に救った前歯の神経は、今も変わらず生きています。
ここから先は、この状態を保つメインテナンスへと移っていきます。
ポケットチャート

最終評価時の歯周ポケット検査の記録。
再来院時に見られた歯ぐきの炎症のサインは落ち着き、メインテナンスで保っていける状態まで土台が整いました。
再来院時に見られた歯ぐきの炎症のサインは落ち着き、メインテナンスで保っていける状態まで土台が整いました。
デンタル14枚法

最終評価時のデンタル14枚法。
一本ずつ精密に確認し、修復・歯ぐき・骨の状態が安定していることを最終的に見届けました。
再来院時の14枚法と並べると、口全体を作り直してきた道のりが見て取れます。
一本ずつ精密に確認し、修復・歯ぐき・骨の状態が安定していることを最終的に見届けました。
再来院時の14枚法と並べると、口全体を作り直してきた道のりが見て取れます。
| 担当医 | 関西 一史先生 |
|---|---|
| 主訴 | 酔って転んだときにぶつけて歯が折れた。 神経を残して欲しい。メタルフリー希望。 |
| 期間 | 3年(他院での矯正治療含む) |
| 費用 | 1,020,000円 |
| 治療内容 | 直接覆髄法(生活歯髄療法)、歯周病治療、セラミック治療、ダイレクトボンディング |
| 治療に伴うリスク | ・治療の効果を発揮するのは、口腔衛生環境の維持にかかっているため、正しいケアと歯科医院でのメインテナンス予防が必要です。 ・くいしばりや歯ぎしりがある場合、負担がかかりやすくなり、割れや欠けが発生する可能性があります。 |